FXをやって得られたこと

FXというものを知ったのは25の時だった。

 

当時ニコ生でたまたま見た生放送でその主がぶっこいているのを見て興味を持ったんだと思う。

 

記憶もあいまいだけどこんな簡単に金を得られるんだと思って俺もそこに踏み込んだ。

 

50万から始めてハイレバで右も左もわからずにトレードをして最初の何回かは金を増やすことに成功したが、すぐに30万ほど大負けした。

 

FXは負けてからが本番だということが言われていたが、そのことも理解できて諦めずに続けていた。

 

増やしたり減らしたりを何回も繰り返したが、結局トータルでは負けていた。

 

資金を大きく減らすたび、何回もやめようと思った。

 

でも、チャンスがあるとついついやってしまい、その時に勝てることもあってずるずる続けてしまっていた。

 

目的意識の自然変化

 

この言葉は受け売りだけど、人生訓だと思う。

 

俺ははじめ金を増やしたくて、稼ぎたくてFXを始めてここまで続けていた。

 

でも次第にその目的が形を変えていることに気づいた。

 

とうに気づいていたのかもしれないけど、見て見ぬふりをしていただけかもしれない。

 

確かに金を増やしたくてFXをやっていることは側面として間違ってない。

 

でも一番の理由が他にあった。

 

退屈だ。

 

毎日が退屈で退屈でたまらない。

 

そんなくだらない理由で俺はFXを続けてしまっていた。

 

勝てればラッキーぐらい程度にしか思っていなくて、大負けをすれば金がどこまで減ろうがだんだんどうでもよくなっていった。

 

FXをやってる人なら一度は専業にしようと思うことがあると思うけど、俺はそんなこと思ってもいない。

 

ただ一喜一憂して安易に手に入る刺激がほしかっただけだった。

 

退屈な毎日を送るだけなんて俺には耐えられず、まるで麻薬の中毒者のようにズブズブその沼にはまるだけ。

 

俺はギャンブルをする人の気持ちがイマイチわからなかったけど、今なら少しわかるような気がする。

 

勝った負けたは実はそんなに重要じゃないんだ。

 

そこにある刺激にみんなハマっていくんだと思う。

 

少なくとも俺はそうだった。

 

刺激のない生活に人はどこまで耐えられるんだろうね。

 

 

27歳のダメ人間が配信者になってわかったこと

久しくブログを書いてなかったわ。

 

まあ俺が書きたいときに好き勝手に書くからしょうがないね。

 

ゲーム実況を動画投稿していたんだけど、なんか違うと思ってニコニコ生放送(ニコ生)でゲーム配信始めたりしてた。

 

始めてみるとコメントをしてくれる人もけっこういてくれたり、

自分のコミュニティに入ってくれる人もいてくれてすごい承認欲求が満たされてる感じがした。

 

始めて一週間ぐらいはハマって毎日配信していたんだけど、同時に配信のしんどさみたいなものに気がついた。

 

俺は配信は楽しいものでデメリットなんて何もないと思ってたんだけど違ったみたい。いくつかあげるね。

 

1.配信中はしゃべりっぱなしになる。

 

これは配信スタイルにもよるんだけど、大抵の場合はしゃべりっぱなしになると思う。

 

なんでその配信を見るかって配信してる人に魅力を感じているからでしょ?

 

例えば同じゲームの実況でを淡々と進めている人と自分の意見や感想を言いながら進めている人がいたとして、

 

どっちがみたいかっていわれたらたぶん後者なんじゃないかなと。

 

しゃべらないならゲーム見てるだけなのと変わらないからね。

 

だからみんなに見てもらおうとがんばって、しゃべりっぱなしになることが多い。

 

それでも人が増えないなんてことも当たり前にあるから配信者は人に見てもらう工夫をする必要があると思う。

 

過疎でいいなら別にいいんだけどね。

 

2.毎日配信するのは正直しんどい

 

ハマってるうちはいいんだけどね、熱が冷めた時に一気にしんどくなる。

 

毎日配信をしていた自分をすごいと思うよ。

 

大手の配信者とかって毎日配信してる人も多いけど、もう趣味の範疇を超えていると思う。

 

仕事だよ、毎日配信をするのは。。。

 

配信はたしかに誰でもできるけど、大手になるには適性があると感じた。

 

配信者適正みたいなものが。

 

俺にはなかったよ、そんなもん。

 

これから配信するとしたら配信ペース考えないといけないけど、

すでにめんどくさくなってるからいけないね。

 

でも配信は楽しいものっていうのは変わらないし、しゃべるのが好きな人や周りに友達が一人もいない人とかね、

 

そういう人には配信オヌヌメしたい。

 

ハマりすぎてネットが全てみたいになるのはヤバいと思うけどね。

好きなことで生きていく前に

この間はじめしゃちょーの記事が目に留まってみてたんだけど、

やっぱ好きなことで生きてはいけないなぁって改めて思った。

 

同じことを続けていくうちに新鮮さは薄れて刺激は摩耗して次第に飽きてくる。

 

はじめしゃちょーが動画投稿を始めた当初とと変わらぬテンションで動画を撮影しているかと考えたらやっぱりそうではないと思う。

 

というか、自分の好きなことを一定の頻度で動画化するなんて

それがどんなに好きなことであっても次第に苦痛になるよ。

 

苦痛とまではいかなくても、「好きなこと」から離れていくのは間違いない。

 

好きならやれるだろ!

 

好きなら耐えられるはずだろ!?

 

ほんとうに好きならがんばれよ!!!

 

とのたまう輩もいますが、こんなのは的外れだ。

 

好きなことは少しでもやりたくなくなったらやめていいんだよ。

 

またやりたくなったら勝手にやるんだから。

 

それを自分に好きなことだと暗示をかけてそのことをするたびに

どんどん好きなことから遠ざかっていく。

 

しかも、やっかいなことに自覚がないまま好きなことは嫌いなことに変わっていくからねぇ。

 

気づいた時にはもう手遅れ、あんなに好きだったことも

もはやどうでもいいことにカテゴライズされてしまう。

 

まったく恐ろしい出来事だよ。

 

 

閑話休題

 

 

では、はじめしゃちょーはそんな好きなことではない何かを

なぜここまで続けてこられたんだろうか?

 

お金のためだろ?と思う人もいるとだろうけど、それが一番の理由ではないと思う。

 

俺自身、ブログとか動画投稿をしてみて実際に感じたことは

「なぜ投稿してるんだろう」という気持ちだった。

 

不思議だよね、最初はそんなこと考えずに好きなことして

それをアホみたいに投稿してたのに今はそんなこと思ってる。

 

本来、好きなことは晒さなくてもいいことなんだ。

 

なにせ本人が好きなことをやるだけでもう完結してるんだから。

 

動画化する必要なんて最初からない。

 

じゃあなぜ動画化しているのか?

 

それはやっぱり見てくれる人がいたからだと思う。

 

過去に承認欲求のことをブログで書いたけど、

そういう側面もあると思う。

 

はじめしゃちょーも途中から見てくれる人を意識して動画を創るようになったと思うし。

 

もし自分の好きなことが大衆に受け入れられない場合、好きなことで生きていくことはできないんだ。

 

生きていくというより仕事にするのは無理だと思ったほうがいい。

 

それでもそれを仕事にしたいというのならもう大衆に合わせていくしかない。

 

見てくれる人が喜んでくれそうなことを取り入れていくしかない。

 

はじめしゃちょーがほんとうに好きなことだけをやっていたら

ここまで成功したかどうかはわからないと思うし。

 

結局のところ純粋に好きなことをして生きていくことなんてできねぇんだ。

 

仕事にすることで好きなことからは離れていってしまうのだから。

 

好きなことなら好きな時に好きなだけやればいい

 

↑が実現できない場合、好きなことは好きじゃなくなっちまう可能性が高いと俺は思う。

 

この記事にたどり着いたあなたに今一度聞きたい

 

好きなことで生きていきたいですか?

 

もう一度よく考えてみてください

 

あなたのほんとうに好きなことが好きじゃなくなる前に

 

 

 

 

SNSが趣味なヤツはヤバい

 

自分の趣味をブログやら動画やらで投稿してみることは今や誰でもやるし、けっこう当たり前になってる。

 

俺もそんな人たちの一人だし、どんどん発信していけばいいと思う。

 

それにコメントとかイイネとかの反応があると「みてくれてる人がいるんだなぁ」と実感もできるしモチベーションを上げる手助けにもなるしね。

 

でもけっこうこいつがクセモノだったりする。

 

最初はもちろん自分が楽しんで投稿しているんだ。

 

でもいつしか更新しないままだと反応が何もないことに気づく。

 

そりゃそうだ、何も更新していないんだから反応なんてあるはずがねぇんだよ。

 

それなのに変に期待して自分がまだチヤホヤされていると錯覚しているんだ。

 

ほんとうバカだねぇ。

 

あたたかいコメントで「更新待ってます」みたいなコメントをしてくれる方もいるので、だんだんとSNSにハマってくる。

 

そしてここまでくると目的がすり替わってくる。

 

そもそも趣味でSNSにあげているものなんて本人の気分次第で投稿するかしないかが決まっちまうもんだ。

 

別にやりたくなかったらやらなくていい。

 

社会人にもなると仕事で趣味に割く時間なんてもんはなくなっちまう。

 

疲れてやりたくない時だってある。

 

しかし、一度知った快楽にはとても強い意志を持った人間でない限り抗えるものではない。

 

自分のブログや動画などに反応がかえってくるのは本当にうれしいことなんだ。

 

はっきりいって気持ちいい。

 

女性がインスタグラムでいいねを押されたい気持ちは一度SNSに投稿してみれば痛いほど体験することができる。

 

だからいつしか趣味がSNSにのっとられちまう。

 

自分の趣味を投稿することが目的だったのに、自然と反応をもらうことが目的になってくる。

 

こうなってくると自分の趣味なんて霞んでくる。

 

何しろ反応をもらうこと自体が趣味になっているんだから。

 

だからSNSを趣味にすることはけっこうヤバいんだ。

 

自分の本当の趣味を大切にしながら、SNSを続けていく、

そんな自分でいたいなぁ。

 

 

人に認めてもらいたい奴はもれなくクズである

 

そう、俺みたいな奴のことだ。

 

自分がクズであるということはもう自分でも痛いほどわかっているけど、それをほんとうに認めることができない。

 

それを認めることは自分自身に壊滅的なダメージを与えることになり、二度と立ち上がることができないと思えるほどの恐怖があるからだ。

 

要するに自分が傷つきたくないんだ。

 

だから適当なところで自分をクズだと認めて予防線を張り巡らせる。

 

ほんとうの意味で認めればどんなに楽になれることか自分自身でもわかってはいるが、そんな苦痛を受け止められるほどの勇気や強さはこいつにはない。

 

こうしてクズは傷つかないための思考を巡らし、ある打開策を練り上げる。

 

他者に自分をクズではないと認めてもらうことだ。

 

自分がクズではないと他者に認めてもらえれば自分はクズではないと紛らわせることができる。

 

しかしこの作戦が成功することは永遠にない。

  

こいつの根幹にあるものは自己肯定感の弱さだ。

 

 いくら他人がクズではないと言ってくれても肝心の自分自身が自分をクズではないと認めることもまたこいつにはできないからだ。

 

その欠陥には目を向けず、おいしいとこだけをすくいあげて他人に承認を求め続けるようになるが、そこにはなにもない。

  

クズでありたくないのならただちにそんなことはやめるべきなんだ。

 

ただ、やめたからといって今日からクズでなくなるという訳でもないが。

 

 根拠の無い自信というものがある。

 

ガキの時の俺は自分が何でもできると思っていた。

 

現実が何にも見えていないバカなガキだ。

 

でも今の俺はそんなガキ以下だ。

 

わかった気になって、端っから無理だと思い込むようになっているんだ。 

 

別にクズでもいいんだ、自分に自信がないやつよりきっとマシだ。

 

だからいい加減認めたい、俺はほんとうにクズなんだと。

20代後半の誕生日

 

この歳にもなって実家に寄生しているダメ人間が人生で27回目の誕生日を迎えました。

 

彼女なんてもちろんいないので、家族に無駄にいいもん食わせていただいて、形だけ祝っていただきました。

 

彼女がほしいとか、

 

早くひとり立ちしなきゃとか、

 

家族に申し訳なくてたまらないとか、

 

そんな気持ちなんて微塵もありません。

 

果てしなくどうでもいい。。。

 

27回目の誕生日に抱いたのはこんな感想でした。

 

そんな自分を軽蔑しきっても足りないぐらいですが、唖然とするくらい気持ちが動かない。

 

喜びも悲しみも感じることはなかったよ。

 

でもそれはけっこう当たり前のことなんだとも思う。

 

考えてもみてくれ、27歳にもなって自分の誕生日を手放しで喜んでいるヤツがいたらそれはそれでヤバいだろう?

 

それに27回も祝われれば嫌でも慣れてくる。

 

ガキのころに経験するバースデーケーキの火を消す感動なんてもう感じることはできない。

 

自分が築いた人間関係の中でそれを追体験することはできるが、やはり純粋な喜びとは程遠いものと思える。

 

もしあなたの友人たちがあなたのためを思い、

誕生日を祝ってくれたとしたら単純に嬉しいとは思う。

 

でも、そこには必ず演技が入ってくる。

 

友人のせっかくの気持ちをぐちゃぐちゃにしないためにも、あなたはきっと嬉んでいる演技をするんじゃないだろうか?

 

単純に祝われて嬉しい気持ちもある反面、相手の期待に応えなければならないという使命感も同時に芽生えてくる。

 

こういう場所で自分の本音を吐くことはこの国では禁止されている。

 

実はそんなにうれしくないからもうしなくていいよ

 

なんて言った日には暗黙のルールで村八分にされ、せっせと築き上げてきた人間関係が一瞬にして崩壊してしまうから。

(脆いもんだよね。)

 

20代後半にもなるともう子供の頃みたいに純粋に喜ぶことはできなくなる。

 

そういえば、いつからだろう?

 

自分の誕生日が楽しみじゃなくなったのは。。。

承認欲求はどこまでいくんだろう

 

人間には三大欲求がある。

 

食欲、睡眠、性欲の3つだ。

 

中には性欲じゃなくて排泄欲だとか呼吸欲とか言う人もいるみたいだけど、それってなんかアゲアシ取ってるみたいだよね。

(言われると確かにそうなんだけれど)

 

まあそれは今回どうでもよくて、

三大欲求が満たされ、最低限の生活が保証されたとき。

 

次に現れる欲求はなんだろうか。

 

あなた自身で少しだけ想像してみてほしいことがある。

 

もし自分がニートになったら」こいつを想像してみてくれ。

 

なお、仕事はしなくても普通に暮らしていける所得があると仮定する。

 

家では三食食事が出て、やわなかなベッドがあり、好きな時に寝られてHなこともし放題だ。

 

映画、漫画、SNS、アプリ、ゲームなど娯楽も適当にあり特に不自由はない生活を送れている自分を想像してみて欲しい。

 

たのしくてたまらないだろう。

 

でもね、

 

最初は楽園のように思えていた生活も次第に慣れていく。

家にあるだいたいの娯楽も貪り尽くし、

現状でもう君を満足させるものはなくなってしまった。

 

 

 

 

さあ、君は何がしたい?

 

 

 

 

 

何もしない?

 

残念ながらそんなことができるのは一握りの超人だけだ。

 

俺も君も、普通の人間にはそんな退屈な毎日に耐えることなんてできねぇんだよ。

 

だから何かをせずにはいられないんだ、そしてその何かが君の次の欲求だ。

 

物欲、金銭欲、仕事欲、知識欲などいろいろあると思う。

 

でもたぶんほとんどの人に当てはまる欲求がある。

 

そう、承認欲求だ。

 

日本もずいぶん豊かになって、おそらく最低限の生活は誰でもできるような国になったと思うんだ。

 

だから俺達は新しい欲求が発生しやすくなった環境で生きているんだ。

 

Youtuberなんかはとってもいい例だと思う。

 

うまくすればもっとお金も稼げるし、仕事欲、承認欲求も満たすことができる。

 

だからYoutuberになったり、インターネットで配信したりするのはこの欲求を満たす上でとても理にかなっている行為だと思う。

 

ニート同然の俺がブログを書いているのだってそんな感じなんだから。

 

そしてここでタイトルに帰るんだが、この承認欲求には終わりがない。

 

食欲、睡眠欲、性欲これらはある一定のラインを超えると途端に必要がなくなる。

 

いつまでも食べ続けることや眠ること、ましてやオナニーし続けることなんて到底できない。

 

しかし、承認欲求などの高次的欲求には終わりがない。

 

称賛されればされるほどうれしいし、娯楽も金もあればあるほど良いに決まっているんだ。

 

当然、俺たちはこの無制限の欲求に応え続けていくことになる。

 

でもいつか気づいてしまう、自分が底なし沼にハマっていることに。

 

ここに踏み入れたが最期、気づいたとしてももうここから逃げることはもうできない。

 

脱出する手立てがないこともないが、普通の人には到底選ぶことができないものばっかりなんだよ。

 

頭上に垂れ下がっているロープは変な宗教や仏教、もしくはあの世につながっているだけのふざけたものなんだから。

 

このエンドレスゲームから降りたいという人にはそんな選択肢しかこの世には用意されていない。

 

それができない人はこの沼の中で一生もがき続けるしかないんだ。

 

 

でも、それでもいいじゃん。

 

 

 

人間なんてどこまでいっても愚かな存在でしかないんだし。

 

壺に穴が開いてることを知っていてもアホみたいに水を注ぎ続ければいいと思う。

 

この終わらない欲求に唯一抗えるとしたらそれはもう理性しかない。

 

理性で自分の壊れた欲求に歯止めをかけるぐらいしか俺には思いつかなかった。

 

もちろん理性より、欲求のほうが強いのであまり効果はないのかもしれないけど。

 

「足るを知る」

 

この言葉のように自分の欲求に蓋をすることができるように理性を鍛えていく。

 

凡人の俺にできるのはそんなところです。